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橋本努講義「人文科学の基礎」2006年度前期

小レポートNo.1.

 

テーマ

ルソー『エミール』およびニーチェ『善悪の彼岸』『道徳の系譜』

 

 

 

 

ルソー『エミール』について

文学部 大野 美紀

2006725日改定

 

 ルソーは子ども=教師論を推しながらも、彼の理念には大人が教師でなければ対応できない点もあり、矛盾している。そこで、私は子ども=教師論に反論するとともに、大人に対する田舎教育の推奨をする。

まずルソーの論ずる子ども=教師論について考えてみると、子どもたちが遊んでいる中で自然と行われているように思える。それぞれが自分の得意分野について主導権を握って遊ぶのは普通のことである。ただその場合、遊びの主導者に対して教師という呼び名は適当ではないだろう。遊び仲間のなかで、子どもたちは一緒に遊んだり、何かを体験することを通じて、互いに学んだり成長していくべきだ。だから、特定の誰かが教師にはなりえない。子どもたちは教師である必要はなく、互いに友達であれば良いのだ。

 大人が教師であることは普通のことだが、ルソーはそのどこに不満があるのだろうか。確かに子どもたちと教師の間には隔たりがあるかもしれないし、ルソーも指摘するように、子どもと成熟した人間の間にはあまり共通なものはないかもしれない。だが、共通点とはどのようなものだろうか。無邪気に遊ぶこころだろうか、物事を疑わない純粋なこころだろうか、いろいろなことに挑戦する好奇心だろうか。子どもの中でそれらを持たない子や、大人の中でそれらを持つ人は、ほんとうにいないだろうか。大人たちはいつのまにか、そうしたものを世間の常識とかいうよくわからないもので押し込めているだけではないだろうか。私はそう思う。子どもと教師の隔たりは、互いの年齢差が原因となるばかりではない。

 そこで私は田舎教育の推奨はむしろ大人にするべきだと考える。子どもは言ってみればまだ新しい存在なのだから、新たによみがえる必要はむしろ大人にあるのだ。子どもたちが自然からいろいろなことを学ぶことはとても大切だと思うが、それとは別に大人こそ自然に触れるべきである。その上で、いままで培ってきた経験も生かしながら子どもとともに学べるならば子どもたちにとっても望むべき存在となるだろう。また社会は人間の弱さから生まれるとルソーは指摘するが、悪もまた弱さから生まれるというので、社会に悪はつきものなのかもしれない。だからこそ、大人たちはいったん田舎でそれぞれが新しくよみがえればいいのだ。そうすることで、大人たちは子どもたちが必要とする教師になることができるはずだ。

 子どもたちに習慣をつけさせないということには、ある程度賛成である。それは自分の気持ちに素直な行動をとろうとするとき、習慣は邪魔なものであるし、自分の欲求をまげる危険なものかもしれないからだ。けれど、ルソーが推奨するように子どもたちが田舎で暮らすなら、話はもっとシンプルになるだろう。田舎で暮らしていれば、欲求は自然に即したものとなり、またそれ自体が習慣になっていくはずだからだ。田舎においては、人々の暮らしは自然のサイクルに従って動くことになるからだ。ルソーは「ほんとうに自由な人間は自分ができることだけを欲し、自分の気に入ったことをする」と言っているが、これは習慣をもたないからこそできることであり、いろいろなしがらみのある都市での実現は難しいだろう。良識ある大人たちは都市にいてはならない。大人たちは田舎へ行けばいいのだ。そして、よみがえって子どもたちの教師になればいいだろう。

 そうした大人が教師となれば、ルソーの望む教育を子どもたちに与えられる。子どもたちが自分で誤りに気づき、自分で訂正するまで待つことも、そのような大人だからこそできるのだ。生徒が自然や経験から教訓を学ぶように手助けをできるのは、子どもではない。自ら自然の弟子である教師、それこそがもっとも望ましいと思う。群れをなして走ってくる偏見から子どもたちを守り、理性や判断力をゆっくりとつけるためには、都会的な弱い大人は教師になってはいけないのだ。

 以上見てきたとおり、まずは大人のよみがえりを図り、そのうえで子どもたちを教師として導いていくことを私は推奨する。そうすればルソーの望むような教育を子どもたちに与えることができるだろう。そして、弱さから生まれ、悪のはびこる都市社会のなかでは良い教育も、良い人間も生まれにくいということは、私とルソーの共通意見である。問題は、教師となりうる存在としての大人を作り出すことにある。

 

 

 

 

ニーチェ・僧侶への批判

文学部 大野 美紀

2006725日改定

 

 ニーチェの言葉は力強い。ルサンチマンを抱え込み、超越者としてのパワーを持った言葉といえるかもしれない。けれど、そこには弱さやもろさがあるように思えてならない。ニーチェは超越者に固執するあまり、極度に独りよがりな性格をもってしまったのだろう。

 『ルサンチマンの人間は、率直でもなければ質朴でもなく、自己自身にたいして正直でも純直でもない』とニーチェは語るが、それは得意げに語るべきことではない。怜悧を第一級の生存条件にすることは、なんて悲しいことだろうかといわざるを得ない。奴隷道徳が『初めからして<外のもの>・<他のもの>・<自己ならぬもの>に対して否という』ものであるなら、もちろん私もそれを肯定はしない。しかし、自己を卑下することが超越者のすることかといえば、それは違うと思うのだ。超越者ならば、過剰に貶めることも、高過ぎる評価もせず、自己をあるがまま受け入れる強さを持つべきだ。

 禁欲的主義的な生が一つの自己矛盾であることについては、賛成だ。禁欲主義は、人間の生を否定しつつも生きているように思える。ニーチェが『生の最深かつ最強のもっとも基底的な諸条件を制圧しようとする飽くなき本能と権力意志とルサンチマン』が禁欲主義を支配しているというのは、確かにそうなのだろうと思う。ただし、私はそれを良いことだとはいえない。それは悲しい生だ。そこには人間らしさというものがみられないだろうからだ。

 ニーチェは『せめてなりと正義、愛、知恵、優越をひけらかすこと――これこそが、これら<最下等者>どもの、これら<病者>どもの野心なのだ!』と語る。そんな叫びが、私には痛々しく聞こえる。ニーチェはなぜそんな風にとらえるのは、ニーチェが弱く、臆病であるからのように思える。全ての人はルサンチマンを抱えているだろうが、見せ掛けでない正義や愛を持つことができるのならば、その人はとても強いと思う。

 しかし、だからといって私は僧侶のルサンチマンの方向転換にも賛成できないのだ。ニーチェは『僧侶が治療しうるものは、苦悩者の不快』だといっているが、そのようなごまかしでは、本当の意味での方向転換にはならない。僧侶のいう【不快感との闘い】には私は不快を感じるし、それは生活感情一般を最低点まで引き下げてしまったとき、その人は人間らしさを失ってしまうからだ。そしてそんな人は、人間としての生を生きているとは言いづらい。また、【機械的活動】も人間らしさの否定である。【畜群生活という処方】と【群れ=共同生活の喚起】についてはもっとも反発を覚える。馴れ合いは、所詮なにも生み出さない。確かに居心地がよく、楽ではあるが、いつまでもそこにはいられないのだ。僧侶の方向転換のひとつである【小さな喜び】についてだが、私はこの考えは大切にしようと思っている分、僧侶の発想には憤懣を覚える。小さな喜びは処方するものではなく見つけ出すものである。それは苦しみを紛らわすためにあるのではなく、苦しい中でもほんの少しのことを幸せだと喜べる強さの上になりたつものなのだ。

 以上のように、ニーチェの考えも、僧侶の考えもいいとは言えない。ルサンチマンを抱えたままで、日々の中の幸せをみつけられる人でいられたら良いのだ。それは強くはないかもしれないが、弱いだけではない、人間らしい生き方である。

 

 

 

 

文学部 馬場 恭矢

平成18621日 平成18726/改訂

「ニーチェ『善悪の彼岸/道徳の系譜』」

 

 今回の講義の中で、ニーチェの思想はとても厭世的で批判的、そして否定的であると感じた。「善悪の彼岸」においてはもはや人間そのものを、「道徳の系譜」においてはよいこと(善良であること、優良であること)や高貴なもの、禁欲することなど、本来であれば理想として推奨されることが考えられ得る事柄がことごとく批判されている。これらの考えは、どのような理論に起因するものだろうか。この疑問においては、前述の「本来であれば」という部分がポイントになると私は考えた。

 序文に見られる「価値判断」に関する記述が、重要な役割を担っている。ドイツ観念論の大成に大きな貢献をした哲学者、エマニュエル・カントの言葉を借りれば、良いこと、善良であることはそれ自体を目的とするのでなければ「適法的」であるとはいえず、すなわち「善い」行いをする上でその行為になんらかのメリットを見出してはならない。この考え方の中には、ニーチェの思想に通じるものが感じられる。高貴で、強力で、高位で、高邁な者が、自分の行為を、低級で、下劣で、野卑で、賤民的な者と区別するために「善い」と位置づけたのであれば、それはその行為本来の持つ意義や目的がどのようなものであるかに関係なく、ただ単に自らの優越を確保し、世間に知らしめたいがために「善い」としたことは「適法的」ではないことになる。

 しかし、このような事態は現代社会にも多く溢れていることではないだろうか。ニーチェの主張するとおり、「価値判断」そのものには「価値」は見出せない。人間は価値判断をすることによって行為の制限をしないと安心することができない生物なのである。たとえば、これは反社会的な意見と捉えられるかもしれないが、「殺人」という行為を例として挙げてみると、まず「殺人」を禁止することそれ自体は何の価値も持たない。強いて言うならば、「自らが殺されることを禁止することにより安心」することができるようにすることを目的としている。しかし、それ以外に一体どのような理由を挙げることができようか? 命は尊いものだから、人生は一度きりしかないものだから、各個人には生きる権利があるから、という例を挙げていけば殺人が許されない理由などいくらでもあるではないかと思われるかもしれない。しかしそれは本当に「理由」に為り得るだろうか? 命が尊いとは誰が決めたのだろうか。何を根拠にそのように断言できるのだろうか。人生は一度しか無いものであるというなら、輪廻転生を提言する宗教に魅入られている人々の立場はどうなるのだろうか。そもそも、では二度や三度人生があったなら、何度か殺されることが許されるとでもいうのだろうか。詭弁に聞こえるかもしれないが、「一度きりの人生」という文句は非常に曖昧模糊とした表現であり、「人生は一度しかない」などと簡単に表現することの許される次元の問題ではないはずである。また生きる権利の主張においても、人間が生きる権利を保有するなど馬鹿げたことではないだろうか。自らの生存のために動物を殺し食料とし、また有害――あくまでも「人間にとって」という意味だが――と見なされる動物を容赦なく殺し、鑑賞や飼育という名の軟禁行為のために平気な顔で動物たちを拘束する人間が、なぜ生きる権利を持つと主張することができるのだろう。すなわちこのことは、自分たちがあらゆる生物の頂点に立つと驕った人間たちの考え出した「価値」なのである。

 貧しくて生きる糧もなく、日々を陰鬱として死を覚悟しながら生活を送っている者は、自己の生存が第一の目的となるわけだから、驕るようなことはしない。そして生きる希望と目的を見出すために、弱者が弱者でなくなるために、神の存在を信じ、ひたすら救いの手を願うのである。彼らは神に頼ることでしか希望を見出せない、言い換えれば神の救いを信じることによって何らかの希望――本当はこれも無根拠なものなのであるが――が手に入ると信じている、「奴隷道徳」の犠牲者なのだろうか。人間の生き方や考え方にはセオリーが存在しない。したがって人間が自ら価値を構築し、そこに落ち着こうとするのは仕方のないことなのかもしれない。しかし、人間は自分たちが空虚な中に生きていることを忘れてはならない。物に溢れ、仲間に囲まれ、信仰に守られていることすべてが幻想であることに気づかない人間たちは存在そのものの空虚さを改めて自覚し、一個体の生物として「良く」、そして「善く」生きる方法を模索する必要があるといえるのではないだろうか。

 

 

 

 

文学部馬場 恭矢

平成18726 平成18年度1年次1学期

「ルソー『エミール』」

 

 「エミール」を初めて読んだときに真っ先に頭に浮かんだ感想は、「単なる詭弁のようだが、しかし説得力のある文章だ」であった。ルソーの著書「社会契約論」「人間不平等起源論」を以前読んだときとはまったく違う印象を受けたので、衝撃が大きかった。

 「教育」は「芸術」などと同じように客観的な基準を設けるのが難しいため、「正しい教育」「理想的な教育」という位置付けは決して簡単ではなく、あるいは不可能、とすら言える――現実には、「○○大学に生徒を合格させる」「センター試験で生徒に○○点をとらせる」といったものをはじめ、「人を思いやることのできる人間に育てる」「いじめをなくそう」「立派な大人に成長させる」など教育現場はいくつも目的を掲げているが、私は、これらは単なる理想論であり、たとえばコンビニエンスストアやレストランのマニュアルと同様、形式的な固定を求めて事務的に行っている作業に過ぎないと感じるため、これらをそれと位置付けることはしたくない――。ただし、あくまでも「先生――生徒」の関係にこだわるのであれば、生徒を師弟的な関係によって感化させることができないだろうか。ただし、この場合も「先生」の指導方法は何の干渉も受けない、完全に本人のオリジナルのものでなければならないことになる。

 たとえばルソーの言葉を、講義でも扱った内容から引用すると、「その地位にむくようにつくられた個人は、その地位を離れるともうなんの役にも立たない人間になる」というものがある。これを現代の教育論と照らし合わせてみると、「その地位」というのは、何を指し示しているのであろうか。おそらく「よい高校に入学すること」「よい大学に入学すること」を指し示しているのであろう。そして大抵の場合、これらの「よい」というものは、その学校の偏差値や就職率を基準に判断されているのだと考えられる。偏差値を求めて、就職率を求めて自分の将来を決めようとする若者を悪く言うつもりはないが、これほど本末転倒なことはない。なぜなら、この方法論は「子どもたちが良い将来を迎えるための教育」を、指導する側が一方的に押し付けていることに他ならないからである。したがって、「よい高校、よい大学に入学することによって将来の地位を確保することができ、そして安定した生活を送ることができる」という無根拠な論理に洗脳されてしまう子どもたちが、「その地位を離れるともうなんの役にも立たない人間になる」のである。私はこの部分を二通りに解釈してみた。一つ目の解釈は、すなわち、自分がこれまでに受けてきた教育が、本当に自分が必要としているものではなかったと気づいたときにはもう手遅れで、その時点からいざ新たに社会に足を踏み出そうとしても、その力を受容する精神、肉体がすでに拒絶反応を示してしまう、というものである。そして二つ目の解釈は、指導をする側、つまり教師たちが、自分のもとを離れた生徒には一切関与しないというものである。彼らにとっては、あくまでも生徒たちは自分のステータスを表すものに過ぎず、たとえば高校、あるいは大学に不合格となり浪人することになった生徒たちに対して卒業後も面倒を見ようとする教師がいないのは(少なくとも、ほとんどいないのは)、その表れなのではないだろうか。確かに、学校という施設のシステム上、それは非常に難しいことでもあり、リスクの大きい仕事である。しかし、そのような理由があるにせよ、彼らがその仕事を放棄するのは、彼らが「生徒の教育」「生徒の指導」よりも「学校」という教育機関に勤める一「社員」としてのタスクをこなしているだけ、ということなのではないだろうか。情熱の無い人間の話など誰も聞きたがらないものだが、たとえばルソーの言う「強い感覚を持ってしまった生徒」はそのことに気づいてしまうのではないだろうか。

 以上、ここまで「学校教育」について述べてきたが、「家庭内教育」「社会教育」に関してもルソーはいくつも論理を展開している。そしてルソーの意見には、現代のいわゆる「詰め込み教育」に対する批判に似たものがいくつか窺える。ルソーの理想としたものは他者からの作為的な指導によるものではなく、生徒本人が自ら発見し、そして解釈し、生きる上での糧へと活かしていくための方法論であり、これはあくまでも私の感想だが、やや無理があるもののルソーは「自然に帰れ」という言葉のとおり「自然」へとつなげて行こうとする論理展開を目指したのではないだろうか。前述の「単なる詭弁のようだが、しかし説得力がある」というのはそのような理由に起因するものである。

 

 

 

 

レポート課題2:ルソー『エミール』

沼尾倫子

2006/06/14

 

共感できること

活動重視の教育・実践知などルソーはエミールを机の上で学ばせるよりも外に出て、体験しながらいろいろなことを覚えさせていくほうがよいと思っているようだ。わたしはこのような意見に賛成である。というのも、子どもに一番必要な物は本や言葉からの知識ではなく、具体的な経験や体験と、それについての知識であると思うからだ。もしその後学問の道を志すとしても、大人になってから勉強して遅くはないと思うが、子どものときに体験するはずだったさまざまな事物を大人になってから体験するというようなことは出来ない。標準語でなんと言うのかわからないのだが、「なげわらし」のようなたくましい子どもは経験豊富ないい大人になると思う。

子ども教師論にも賛成である。ただしこれはルソーの理想とする理由と、わたしの理由は少し違う。教師はいわゆる精神年齢が子どもに近ければ大人がいいと思う。子どもに信頼されるからではなく、子ども教師が何か失敗をすることによってその子どもは大人が完璧な生き物でないと実感できるからだ。教師への信奉のようなものはないほうがいいと思う。そして子どもと教師の間に硬い結びつきは必要ないとも思う。

デッサン・作曲だけでなく、さらに思いつく限りたくさんのことをやらせたほうがいい。とりあえず広く浅くいろいろかじっておくことは将来の選択の幅を広げてくれると思う。ただし、あとのほうと重なるが、田舎ではそんなしゃれたことをたくさんできない。

職業を学ばせるのはよいことだと思う。手に職をつけるということもさることながら、誰かが職を選んでくれるのは悩まなくてすんで、よい。

共感できないこと

田舎教育はおかしいと思う。というより本文の田舎教育のところがあまり理解できないのだが、わざわざ田舎へ送っておきながら、しかも都市を堕落の淵などといっておきながら、大きくなってから都市へ戻すというのもよくわからない。結局、ルソーは都市が大事で田舎を軽んじていて、リフレッシュとかその程度のためのものと考えているように感じられる。さらに、田舎では美術や音楽など芸術に関係あることはほとんどこなせないと思う。そんなハイカラなことを出来る雰囲気は田舎にはない。画家や音楽家だって都市にいて田舎に静養に来るからインスピレーションを受けるのだ。別にそんな高い完成度を目指しているわけではないだろうが、とにかく田舎に芸術は向かない。

道徳や社会的効用を教えないというのはいけない。子どもに理解できなくても、小さいうちに教えておかなければいけないことはあると思う。自発性を尊重するとは言っても、誤りに本人が気づくかどうかはあやしい物だし、気づいたときにはもう手遅れだったということも十分にあり得る。あとで社会のしきたりを学ぶ時期というものが設定されているようだが、大きくなってはじめて学ぶより、元から知っていることを再び学んで別の視点から見つめたほうが、適切、あるいは優美にこなしていけるようになると思う。

人々の評価に対しての見解は高く評価しないが軽蔑もしない、というものであるらしいが、人々を哀れむということは軽蔑につながることがあると思う。同じものになりたくないと思うということは、彼らを見下していることにならないのか。

疑問

わたしが「エミール」について考えたことで一番疑問を感じたのはエミールはたった一人しかいない優れた人間になるのか、ということだった。エミールは都市で、人々を哀れみ同情しながら人々から孤立(独立?)した一人の人間として生きるらしい。つまり、エミール以外の人間は他人に逆らったり、お世辞を言ったりしながら寄り添って暮らしているということになる。それはさすがにおかしいと思う。しかし、みんながみんな、エミールのようにしているなら、エミール自身もほかの人に同情されていることになる。そしてそれを互いに気づかない。本当はみんな立派な人間なのに。喜劇みたいにこっけいだ。

 

 

 

レポート課題3:ニーチェ

沼尾倫子

2006/06/21

 

高校の倫理の記憶をたどれば、ニーチェは確か実存主義のところに出てきて同じ実存主義のキルケゴールに対して無神論的、と教えられた。倫理の授業ではその取り上げた人物の思想を紹介するだけで大概はその著作を読むことはしないので主観的な主張は伝わらない。講義で読んだ文の中でなんとなくキリスト教を批判していて、それで信仰によるルサンチマンの方向転換の結果を人間を病気にしている、といっていて、だから無神論的なのかと思った。

良いと悪いの起源についてはまったくその通りだと強く共感した。わたしは以前、良いと悪の区別を考えていて、あることが起こったときに利益を受ける人間が損をした人間より過半数を超えればそれは良いことで、逆ならば悪いことだということになったが、ニーチェの言う高貴な人や強力な人たちなどの人間の価値を、低級な人たちの価値よりも上げて数値化して考えてみるとわたしの考え方と近くなって納得できた。現代社会で人間の価値を平等だと思っているのは実は弱い人間たちだけで、強い人間は今でも価値が高く、良い行いの基準を作り出し続けていると思う。例えば戦争が起こったときは勝ったほうが英雄として扱われるし、あるいは戦争自体も正義だということになっている。彼らが良心の呵責を感じながら戦争しているとは思えないし、良心のやましさを感じたり、負い目を感じたりするする人たちも確かにいわれてみれば弱い人たちだ。強い人間が「清明な良心をも味方につけてきた」という言い方はその考え方から見れば当然なのだが、そこまで考えの至らなかったわたしはなるほど、と感心してしまった。

弱者の道徳観は適応規制の合理化に、僧侶が行うルサンチマンの方向転換は、適応規制の抑圧にそれぞれ似ていると話を聞いていて思った。そして方向転換の結果、また合理化されたり、昇華されたりしている。

ルサンチマンは怨恨という意味であるが、奴隷道徳を考えているとあきらめに近いと思った。弱い人間は強い人間にあこがれて、しかし自分は強くはなれないと頭からあきらめて、そして最終的にルサンチマンの人間になるのだと思う。ただ、ニーチェはルサンチマンの人間を悪いもののように論じているが、一概に否定すべきものではない。全員が全員、力や生に強い意志を持っているならばたちまち争いが起こるのではないだろうか(ホッブズが言うように)。だからわたしは群蓄や功利主義( みんなが幸せになる、という考え方だと解釈している)を否定しない。多くの人たちがそれで飼いならされた状態になってよわくなっても、そのほうがずっと平和であると思うからだ。やりたい奴だけ勝手に苦労して超人になってくれと思う。人間のなかには絶対にそんな変わり者がいるから、人間という種全体が弱体化することはない。超人は群衆の中に一人、あるいは数人いるからこそ際立って理想像のように見えるので、社会の大多数の人間は寄り合って暮らしていてもかまわないのではないだろうか。それとも、そう考えて私自身も大多数の人間になろうとしているところからして、弱い考えで、直すべきなのだろうか。

 

 

 

 

山田今日子

2006620

 

 ニーチェの主張は一貫していてわかりやすい。著書『善悪の彼岸』の中でも『道徳の系譜』の中でも、回りくどい言い方を避け、激しい主張を展開している。しかし、彼の主張には決して賛成できない点がいくつかある。

まずは、『善悪の彼岸』について考えてみる。ニーチェは「畜群による社会の水平化」(〈緑の牧場の幸福〉、すべての人のために生活の保証、平安、快適、安楽を与えるというあの幸福)に強く反発し、苦悩の鍛錬や苦労(冷酷、強圧、奴隷状態、路上や心中に潜伏する危険、隠遁、ストア主義、あらゆる種類の誘惑術や悪魔的所業、また人間におけるあらゆる邪悪なもの・恐るべきもの・暴虐なもの・猛獣的なものと蛇のように陰険なもの)などの、一見して人間が忌むべきものを乗り越えることで生まれる力強い成長の必要性を説いている。平安な状態に慣れてしまえば、人間はこれ以上の成長を望まなくなり、〈人間〉という種族の向上を図らなくなるのだという。しかし、実際のところ、完全な社会の水平化は実現しうるのだろうか。ニーチェの主張は、社会全体が落ち着いてしまうことで、人間の独創力と偽装力などの成長は止まってしまうというものだが、実際の社会は絶えず流動していくものであり、その時々で大きな問題が発生し、さまざまな形での解決を余儀なくされていくのではないか。人間が社会の水平化を求めるとき、その一部は功利主義的立場から、「自分だけは例外的に利益を得たいものだ」と考える者が必ず現れる。このようにして、社会の均衡状態は崩れていき、むしろ激しい格差社会へと移行していくかもしれない。いつの平和で理想的な時代にも必ず終焉は訪れる。誰かが良い思いをすれば、必ずどこかで利害が対立し、いやおう無しに軋轢が生じる。そういった歴史を繰り返していくことで、とても長い目ではあるが、人間は新たな教訓を得、力強く成長していくものではないか、と思うのだ。

続いて、『道徳の系譜』について考える。ここでは、善悪の基準や「惨めな者(貧しい者、力のない者、賤しい者)のみが善い者で、悩める者、乏しい者、病める者、醜い者のみがひとり敬神な者、神に帰依する者であり、彼らの身にのみ浄福がある」とするようなユダヤ人(イエス・キリスト)の「諸価値の徹底的な価値転換」や、宗教の虚無性について書かれている。

 まず、ユダヤ民族の選民思想や価値のおき方にいついて考える。ユダヤ民族はどの時代においても厳しい扱いを受け、迫害されてきた。このような過酷な状況の中で、彼らは神に身を寄せて生きる希望を見出してきたのである。私は、いつか聖書の話を聞いたことがあったのだが、そのときの印象としては、ユダヤ民族は決してニーチェのいうような傲慢で身勝手な態度で、信仰を持っていたのではない気がした。キリスト教の中では、人生は神の計画のうちにあると考えられており、すべては神の最善であると考えられている。彼らは「これほどまでに惨めな自分たちさえも、見放さず、救われる神」を称え、崇めていたのだ。本当に生きている意味すらも見出せないような状態で、自分たちを迫害してきた人々に対して、恨みがわくのは至極当然であると思う。それでも尚、自分たちの過酷な運命を受け入れ、人生を肯定して生きていたのではないかと思う。ニーチェはこれを「諸価値の徹底的な価値転換」と見なしていたが、私は「自分の(神によって与えられた)運命を甘受し、人生を肯定する積極的な姿勢」なのではないか、と思った。(根本に神が存在するか否かを除けば、ニーチェのいう「運命愛」に似た部分はあると思う。)

 続いて、宗教の虚無性について考える。ニーチェはその著書『ツァラトゥストラはかく語りき』の中で「神は死んだ」と記し、西洋の歴史を支えてきたキリスト教的価値を崩壊させた人物である。当時、神は人間にとっての最高の価値であり、生きていくための指針であり、世界の意味であった。しかしそれを真っ向から否定した。彼は「キリスト教は、こよなく霊妙な慰藉手段の一大宝庫」で、「その中にはじつに沢山の清涼剤・鎮静剤・麻酔剤が山と積まれている」と考え、キリスト教に身を寄せてきた人間たちの信仰は、「虚無への意志であり、生に対する嫌厭であり、生の最も基本的な諸前提に対する反逆」であるとし、「人間は何も欲しないよりは、いっそむしろ虚無を欲する」とした。つまり、宗教は幻想のようなものであり、人々が生きながら抱える罪悪感などから逃避するための逃げ口であると考えたのだ。ここまで読んで思ったことがある。キリスト教徒にとって、神の存在は、自らが平安を得るために必要な存在ではあるけれども、それと同時に、生きることに向き合い、人生を全うする上で、不可欠な存在なのではないか、ということだ。ニーチェは神の存在を否定することで、人々が今生きている現実を直視するように促した。

しかし、信仰を持った人々は、現実を直視しているのではないか。(少なくとも、知人のクリスチャンを見ていてそう思う。真の信仰は盲目的ではないと思った。)ニーチェは神を激しく全否定するが、ここまで強く反発する姿勢は、逆に言えば彼が最も神から逃れられていない(つまり、神に対して大きなコンプレックスを持った)存在なのではないかと思う。本当に神など信じない人は、意識の中にも神は存在せず、否定(反発)も肯定(信仰)もせずに、宗教の存在を「認める」ことができるのではないか。その人の中に神はいない。ただそれだけのことだと思う。

 

 

 

 

ニーチェ「善悪の彼岸/道徳の系譜」

教育学部  武田美帆

621日提出 

 

 今回の講義ではニーチェを扱ったが、私はこの題材において、賛成できた考えと、そうは思わないという考えがあった。以下には、「ルサンチマン(怨恨)の解消法について」に絞って私の考えを挙げる。

まず、ルサンチマンという感情は本当に解消すべきものなのであろうか。ルサンチマンという感情は、人によって程度は異なると思われるが、多かれ少なかれ誰でも持つ感情である。また、このような感情を持つのが人間であろう。この感情を持つことは果たして本当に悪いことなのだろうか。確かにそのルサンチマンの感情から、人を傷つけたりしてしまうのは良くないので、多少和らげる必要はあると思われるが、その感情をそのまま消去してしまおうと考える必要は無いと私は考える。ルサンチマンの感情を、競争心に変え、自分が向上心を持って努力していく方向に持って行こうとすることは可能だと思うし、また、そうする人間もいると思うので、一概にすべてを消去すべきものとして捉える必要は無いと思う。

また、それを和らげようとするときの方法として「(1)行為の最小化、(2)勤労(規則正しい生活)(3)小さな喜び、(4)畜群、(5)群れる」、という五つが挙げられている。この中で、「(4)畜群、(5)群れる」という方法については、現実の世界を多少反映している言葉だと思う。(5)では、本文には、「強者らは必然的に互いに分離しようと努めるのに、弱者らは必然的に寄り合おうと努める。弱者が連合するのは、ほかならぬこの連合そのものに愉快を覚えるからなのだ。」とあった。この一節は、実際の今の社会の状況をうまく表現していると私は思う。私自身も、一人でいるよりも誰かと一緒にいたほうが心強く感じることがある。また、たとえ特に何の用事がなくても、誰かとなんとなく一緒にいる場面があったりもする。必ずしも、自分が弱者であると自覚していたり、それほど弱者でもない人もいるかもしれないが、現実の世界では、群れるという感覚を持っている人たちは少なくないと思われる。しかし、(1)(2)(3)については、私には違和感が感じられる。特に「(3)小さな喜び」については、講義中の討論時にも述べていた人がいたが、どうして大きな喜びではないのか。どうして大きな喜びを求めようとしないのかが、私には不思議に感じられる。ここでは「沈鬱」と闘うときの対処法として挙げられている。確かに小さな喜びの積み重ねでそれを解消するという考え方そのもの自体を悪いとは思っていないが、「沈鬱」を解消する手段としてなら、ひとつの大きな喜びを味わうというのでも良いと思うのだ。喜びという感情は誰もが求めて当然の感情であると思うし、喜びというその感情の大きさは、誰でも大きいほうがうれしいであろう。そして、そのほうが沈鬱をいっぺんに和らげることができると思うのだ。そういう点で、小さな喜びに限定する必要は無いと思う。また、「(2)勤労(規則正しい生活)」についてであるが、本当にこんなことでルサンチマンが解消されるのであろうかという疑問を持ってしまう。現実には、努力をしても、必ずしも思い通りのものが手に入るとは限らない。もしも、自分が一生懸命働いていて、自分でもその自覚があったとする。そのとき、自分は一生懸命に働いてなんとかぎりぎりの生活をしているのにあの人は何もしないでよい暮らしをしている、という状況があったらどうであろうか。自分はがんばっているのに報われない、他人は何もしていないで楽をしているのに利を得ている。こんな場面に出会ったら、私ならルサンチマンを和らげるどころか、そのルサンチマンの感情をよりいっそう大きく、そして強く持ってしまうだろう。そう私は感じるのである。

 以上が、ニーチェの文章読み、講義を聴いて、「ルサンチマンの解消法」について、私が考えたことである。

 

 

 

 

ルソー 「エミール」

教育学部 武田美帆

614日提出

 

 今回の講義では、人が生まれた時から一人前の人間になっていくまでの教育論について書かれている、ルソーの「エミール」についての文章を扱った。私はこの文章を読み、その講義を聴いて、過保護が目立つ現代において、「けがを配慮しない」という点や、ゲームばかりをして外で遊ぶことをほとんど知らない子どもたちに「田舎教育の推奨」をするという考え等、賛成できる点があった。しかし、納得がいかなかったり、疑問を感じたりした点が大きく二点ある。

 まず一点目は、「道徳や社会的効用を教えない」についてである。私はこれに反対で、道徳や社会的効用は幼い頃から教えるべきだと考える。人間はひとりで生きていくことはできず、さまざまな人とお互いに助け合って生きている生き物であるから、当然社会には生きていく上で必ず全ての人が守るべき一定の秩序が存在するはずである。例えば、極端に代表的なものとしては、「人を殺してはいけない」、「盗みをしてはいけない」、「他人に優しくしなさい」などを考えることができよう。このような考えは、いったい何によって成り立っているのだろうか。こう考えると、それを教えるものが道徳であるはずだということが見えてくるだろう。なぜ道徳は必要なのかについて高校時代に先生がこう話していた。「現代の日本において少し考えてみると、社会秩序を守り、維持していくための代表的な手段として法律が挙げられるけれど、法律には『○○○をすればこのような罪にあたり、このような罰を受けることになります』ということが書かれているだけで、『○○○をしてはいけない。』とは一切書かれていない。つまり、法律は何かある物事を行うことを禁止してはいないということになる。それに対し、道徳とは、『なぜ○○○を行ってはいけないのか』を教えるものである。だからこそ道徳は重要なのだ。」と。この法律と道徳の関係の考え方は現代の日本について考えた場合のものである。したがって、今現在存在するすべての国や、ルソーの生きた過去の時代にも必ずしも当てはまるとは言えない。しかし、ある行為に対して、その行為の内容がどうあれ、『なぜ行ってはいけないのか』、『なぜ行わなければならないのか』を教えるのは道徳で、その社会に生きる一員として早い時期から学ばせるべきであると私は考える。

 次に二つ目として「子供=教師論」についてである。「子どもと成熟した人間のあいだにはあまり共通のものがないし、そんなに年齢の差があっては十分に固い結びつきはけっしてできあがらない」とあるが、必ずしもそうとはいえないと私は思う。反対に、教師が生徒に心から信頼されず、固い結びつきが持てないという場合、原因は単に年齢の差という一言で片付けられるものではなく、ただ単にその教師の力が無いだけであるとは言えないだろうか。確かに、年齢の差によってできる隔たりは存在して当然のはずである。むしろ、存在しないほうがおかしい。だからといって、生徒と教師間の固い結びつきが出来上がらないというのは年齢の差によるものだと簡単にはいえないはずだ。隔たりがあるからこそ、そこから尊敬の念などが生じたり、子どもを惹きつける魅力を持ったりする。そして、子どもが「この先生についていこう」という気持ちになり、教師との結びつきを強めるきっかけになると考えられる。実際に、どれほど年が離れていようとも、心から信頼でき、固い結びつきを持てる教師は存在すると思うし、私も小・中・高校生のときにそのような先生たちに会ってきたと思っている。そのときは、年齢の差が邪魔をしていると感じたことは無い。だからこそ、生徒との良い関係を築き上げることができるかは、その教師の力量によると私は考えるのである。また、講義中に、教師となりうる子どもの例として『名探偵コナン君』のような子、つまり、大人が体だけ小さくなったような人という考えが提示された。しかし、問題になるのは、そのような子どもをどうやって育てるのかというものである。頭が良く、かつ、精神面でも大人びている子どもを育てなければならないということはかなり難しいことであるはずだ。第一、エミールにおいて、子どもの頃には教えたりやらせたりせず、もう少し成長してからの成長過程で教えたりやらせたりすることになっている事柄がある。しかし、教師のような子どもを育てるという発想を持つと、このような考えは崩れてしまうと思われる。というのも、教師の立場となる子どもには、まだ学ばせなくてもいいことを学ばせなければならない可能性が出てくるからである。これによって、矛盾が生じてしまうのではないかと私は考える。

 以上の大きな二点が、私が「エミール」についての講義中、または講義後に振り返った時点で、納得がいかなかったり矛盾を感じたりした点である。教育制度が確立され、固定化されている現在において、エミールは相容れない内容が多いと感じた。

 

 

 

 

ルソーの『エミール』にみる教育論

小野みなみ 726日再提出

 

 今回授業で取り扱った『エミール』は私にとって一度は読んでみたいと思っていた数少ない古典の一つであった。本来、堅苦しいものが多い古典に興味がなく、また教育学部志望でもない私であるが、ルソーの『エミール』については高校時代の倫理の授業の時から、現代の教育制度と比較したり参考にしたりすることによって現代の教育制度、あるいは私自身の日常生活や生き方を模索できるものなのではないかと思っていた。現に、いつもは難しくて理解が出来ないことも多いこの『人文科学入門』の授業で、自分なりの考察をしてみたいと思わされた。

 授業中の議論においてルソーの教育論は現代社会では不可能であり、あくまでも理想論であるというような意見があったが、改めてレジュメを読み返してみると現在の教育制度と合致するのではないかと思われる部分も見受けられた。たとえば活動重視の教育、経験重視というのは少し前に賛否両論を受けていた『ゆとり教育』を彷彿させる。私はゆとり教育には反対であるが、それぞれの理解の程度に合わせたり(ただし出来ない人に合わせるというのはやはりいただけない)、それぞれの個性をのばしたりしようとする考え方はルソーの考えに近いと言えるのではないか。また、『子ども=教師論』というのも今の生徒と先生の関係に似ていると思われる。とりわけ小学校から高校までによくあることだが、生徒は教師に対して敬語を使わなかったりする。それを教師側が『信頼を得ている証拠』のように受け取っているように見受けられることがあるが、私はそのような教師はかえって信頼できない。そういった教師は子供の機嫌を取っているようにみえるからだ。やはり生徒と教師は『遊び仲間』であってはいけないと思うし、適度な距離感は持つべきであると思う。しかし「大学生と教師の関係」にはもう少し親密さがあっていいのではないか、と最近思うようになった。ルソーは子供が子供の教師になるのが一番理想的だと述べているが、その言葉の真意には教える側と教えられる側が近しい立場にあることがよいということが込められている。大学生と大学の先生は、いままでの教育機関の教師と生徒の関係の中で心理的には一番近しい関係にあるはずである。その根拠としては、まず年齢が近い。世代の差はあっても、大学という社会のなかで日常を過ごしてきた大学の先生は精神的にとても若い方が多いように見受けられる。次に、これは専門に入ってからのことであるが、興味の対象が似通っている場合が多い。ある学問を専門的に研究している大学の先生に、自分が興味を持っていてこれから学びたいと思っていることについての話を伺える機会があることは、学生にとって願ってもないことである。しかし教卓と学生の席の距離は物理的に見るよりもずっと遠いものである。「積極的な学生」になれるのならばよいが、たいていの生徒は高校のときのように教師と個人的なことを話す機会はない。まして言葉を交わすことすらないこともあるだろう。今の学生、とりわけ大学生に必要なものは積極性であると痛いほど痛感している。

 一方、ルソーの教育論には独創的な意見もある。まず注目させられたのが『習慣になじませない』という意見であった。一般に私たちは規則正しい生活をするように教え込まれるし、私自身そのように心がけてきた。しかし大学生になり時間の融通がきかなくなって、今までの『早寝』や『寝る三時間前以降は食べない』などの習慣が果たせなくなってきた。最初のころは習慣を優先させていたがだんだんそうしていると『大学生としての生活』が成立しないことに気がついた。『どんな習慣にもなじまない』という習慣をつけさせろというルソーの意見は、私にとって自分の現在の生活スタイルを後押ししてくれる一言となった。しかし大学生になって三ヶ月が過ぎ、そろそろ自分のペースを確立することも必要なようにも思われてならない。次に注目させられたのは『語彙を少なくする』という意見だ。自分の実体験に則して考えると、たとえば法学の専門用語でそれらしく文章をかこうとすると言葉に振り回されてしまいがちだ。自分の意見を入れてはいけない法学の世界でそのような状況に陥っているということは、日常生活でいかに私自身が言葉に振り回されているかという不安につながる。かえってシンプルな言葉で表現するほうが明確に内容を伝えられるだろう。ルソーのこの意見は様々な人と会話をし、うわべの表現力に惑わされずに冷静に人を見て、その人の本当の思考能力を見極められる能力をもっていたからこそ生まれたものであると思われる。

 他方、独創性は認められるもののルソーの意見のなかで私がどうしても納得できなかったものは、『書物の破棄』である。たしかに本を読むと多大なる影響を受ける。そしてそれを受け売りにしてしまう可能性も高い。しかし読書によって得られる知識は多いと思うし、他者の意見を聞くことによって自分の意見が明確になることもある。私は、人間は『共同体』のなかでこそ生きていけるものであり、人のなかにあってこそ人間らしさが生まれるものであると思っているので、なるべく早いうちから他者の意見に触れるべきであると思うし、本は早いうちから読むべきであると思う。難しい本を読んで理解が出来なくて興味を失ってしまう、というような弊害があるかもしれないが、その経験すらも私は自分の糧になると思っている。そのようなトラウマを持ったとしても再び難しい本に挑戦することができ、さらに理解ができたときには人は大いに成長するのではないだろうか。

 現代社会において、『権威に従順な子供』であるよい子が増えている一方で、『自由な子供』を奨励するような教育制度がとられつつある。たとえば成績について相対評価を用いてつけるなど他人と比較しないようにする。しかしより高度な学問を学びたいと思う子供にとって避けられない受験というものは、競争そのものであり他者との比較によって成り立っているものである。このような矛盾が存在する限り、子供たちはその矛盾にさいなまれ混乱する。個性をのばしたくても社会がそれを許さない制度を残している。私は決して受験制度に反感を持っているわけではないし、努力もせずに大学生になることはあってはならないことであると思う。しかし大学受験に関して言えばアメリカのように、いわゆる『全入制』にし、卒業用件を厳しくするほうがより大学生活を意義あるものにできると思う。しかし入学試験に関して改革をするより、現代の日本において必要なのは徹底した教育方針の確立と、それに見合う社会、そして『学生』を国民全体で作り上げていくことであると思う。そうすれば入試に関して現状を維持したままでもよりよい教育を行い、そしてよりよい教育を受けようという意思を持った学生が集まるのではないだろうか。学びの場は限定されたものではない。そして学ぶことは場所によって確立するものではない。人々の学ぼうという意志があってこそ、教育というのは成立するのだと思う。教育は子供のものだけではなく、大人のものでもあり、大人も常に成長し続けることが国家を発展させるのに必要なことではないか。そういった意味での、『子供=教師論』(=子供は大人から学び、大人も子供から学ぶという教育のあり方)を私は推奨したい。

 

 

 

 

ニーチェの「道徳の系譜」について

法学部 小野みなみ 726日再提出

 

 ニーチェという名前を聞くとまず、『神は死んだ』という言葉が思い浮かぶ。またキリスト教を全面的に否定した人間としての印象が強く、この『道徳の系譜』においてもそのような彼の思想が見受けられる。私自身はキリスト教徒ではないが、幼い頃からキリスト教に慣れ親しみ、キリスト教的考え方に基づいて育てられてきたのでこのようなニーチェの思想にはやや反感を覚えた。しかし一方でキリスト教を学んできた身として考えさせられる部分も多い。そしてまた、ニーチェの思想を分析していく過程で、驚くべき疑惑も生まれてきた。

 まず『よいとわるい』について、ニーチェは、これらの判断の起こりは他者との間の優越をはかることによって生まれた、しかしキリスト教的な考え方によってかつての貴族的価値から惨めな者、貧しき者、力のない者こそがよい者とされるようになったと述べている。ニーチェはこのような価値転換に厳しい態度を示し、強い者をよいものとし、弱い者を悪とした。たしかに自分のことを惨めだと思い、力がないとして自分の力の及ばないことを何一つしないのだとしたらそれは『弱い』といってよいと思う。またキリスト教的考え方において『貧しい』というのは『心の貧しさ』を表すのでそれも弱さに直結するといって間違いはないだろう。しかしここでひとつの矛盾点が生まれる。キリスト教においても、『心の貧しさ』は悪として見られ、キリストは回心することを促している。よって「キリスト教的な考え方によって貴族的価値から惨めな者、貧しき者、力のない者こそがよい者とされるようになった」というときの『貧しさ』は『心の貧しさ』ではありえない。つまり文字通りの『金銭的な貧しさ』ということになる。ならばニーチェは『金銭的に貧しい者』は悪であるとしたことになる。しかしレジュメの後半部分において、「弱さゆえに逃げたり群れたりする」と述べている。この『弱さ』は『金銭的貧しさ』からくる弱さなのだろうか。この弱さは文面から判断しても『心の貧しさ』からくる弱さをさしているとしか考えようがない。つまりニーチェはキリスト教を否定しつつも『心の貧しい者は弱い』というキリスト教の教義の一つを肯定していることになる。あらためてレジュメを読み、考察してみることによって『神は死んだ』といい、キリスト教を否定したニーチェは、実は神を肯定していたのではないだろうかという疑惑が消えようのない確信として私の中に残った。高校時代、一説に『ニーチェは神を肯定していた』とうかがったことがあった。その根拠は教えていただかなかったが、おそらくこのような見解が生まれたのもこの言葉がきっかけだったのかもしれない。

 次にニーチェはルサンチマンについても『ルサンチマンの人間は、率直でもなければ質朴でもなく、自己自身に対して正直でも純直でもない』と否定的な見解を述べている。この点に関しても私は異論を唱えたい。私はルサンチマンをもたない人間はいないと思う。なぜなら人間は欠点を持ち合わせているために人間であり、自分にとって欠けている部分を持っている人間をうらやむことは当然のこととして存在する感情であると考えているからだ。自分の感情に素直なのは正直で純直であるといえるのではないか。またニーチェはルサンチマンを持つ人間について『彼の精神は隠れ家を、間道を、裏口を好む』と述べているが、裏口という名の処理産業自体は悪いものなのだろうか。人は誰かしら自分自身に不満を持っているもの、その不満を、自己を克服する以外の方法で解消することを否定することは可能なのだろうか。たしかに自己を克服することは難しい。他の方法に逃げることは確かに弱さ故なのかもしれない。しかし自分自身を克服することは欠点を持ち続ける人間である限り不可能なのである。よって神になれない人が、自己を克服できると思うことは傲慢なのであって、ニーチェがいう『弱い』人間は自分の器を知っているという意味で謙虚な人間といえるのではないだろうか。ニーチェのいう『強い』人間は私にとって傲慢な人間にしかうつらない。しかしニーチェは『神は存在しないもの』としてこのような見解を述べているので、人間は自分自身を克服できるものと考えていたのだろう。神の存在を否定しきれない私にとってはやはりこの考えは理解しがたいとしか言い様がない。

 最終的な結論として、ニーチェの弱者を否定し、より強いものへと成長する『超人』に人間の理想像を求めた思想は、若くして病に苦しみ、そのために職を離れ、孤独の中で病苦と闘った人生経験から生まれたものなのではないかと考える。

 

自分の書いたレポートを読み返してみて、やはり自分はニーチェについての理解が不十分であるように思われた。ニーチェといえば『神』、『キリスト教』という表面的な連想しかできず、自分の文章を推敲しようとしても新たな見解は生まれてこなかった。

 

 

 

 

ルソーについて

古沢 健泰

 

 ルソーの教育論は、現代の教育制度からは考えられないほどに奇抜なものである。特に「子供を教える人間は、その子供と同年代の人間がよい。」という考えは奇抜であり、現代の人たちには相手にもされないだろう。しかし、ルソーの考えは多少なりとも的を得ている。なぜならば、私を含んだ大勢の人たちが経験をしているからだ。その経験とは、教師のほとんどが子供たちより年上であるがゆえに、自分たちのことを子供だと判断され見下されるということである。

 子供を含む世間一般の人間は見下されることを嫌う。子供は教師に見下されることで嫌悪感抱く。特に、学校(おもに中学、高校)では成績が悪かったり、素行がよくない子供は、「社会のクズだ」と言うレッテルを貼られ、更なる見下しを受ける。その悪循環で子供は授業を嫌い、勉強を放棄する。

 すべての教師が子供を見下すわけではないから、このサイクルが必ず発生するわけではない、中には尊敬に値するすばらしい教師も存在する。それでも、子供たちが教師を嫌うのは、生徒たちの勝手な思い込みがあるからであり、それは生徒たちに問題があるのだが、現在の社会でそのような思い込みが存在することは、致し方ないことである。 

 では、この問題を解決するためにルソーの考えを適用すればよいのだろうか?答えは、NOである。その理由は、2つの理由が存在する。

 1つ目は、教師が同年代のこどもだからといって、教師に親しみやすくなるだけではないという事だ。一般には、教師というのは、生徒よりも能力が高い人物がやるべきであるのだが(それは、ルソーの言う単なる監視だけの能力が必要とされる場合も当てはまる)、その能力をのばすためには、さまざまな経験をつまなければならない。わたしがここでいいたいのは能力を形成する過程で、年上の教師とおなじような人格が形成されていくということだ。すなわち、能力が生徒より高い時点で生徒に対して見下しが始まるのだ。その点では、同年代であるからというのがアドバンテージになる事はない。ひとつ利点を挙げれるとすれば、年上の教師が育ってきた古い教育制度に慣れしたんでいないので、まだまだ柔軟性があるという点だけである。 

 2つ目の理由は、教師の育成の問題である。同年代の人間であるにもかかわらず能力が高いという事は、早い段階で能力を高める訓練をつまなければならない。ということは、早い段階で人間を選別しなければならない事になる。そして、選別された人間は訓練を強制され、教師としての道を歩まなければなくなる。それは、差別以外のなにものでもない。個人の自由を奪ってまで職業を選別することにはまったく意味もなく、むしろマイナスのアドバンテージしかない。

 それならば、理想の教育とは何なのか。わたしがかんがえたのは、発想の逆転をした結果によってたどり着いた考えである。その考えとは、生徒を教師にする事である。

 先も述べたとおり、ひとは上から見下されることを嫌う。それならば、逆に教える立場に回ればいいのだ。その立場にまわれば、教える難しさもわかるし、何よりも学ぶ事が多い。つまり、生徒に教えていく過程でなぜ生徒は悪い態度をとるのだろうと疑問をもち、それを考えるときに自分とてらしあわせることで自らがとっていた態度についても考えるようになる。何度も言うように、教える事自体が自分自身の学習になる。

これには課題もある。それは、生徒自身が教師にまわる時期である。

正直なところこれにはさまざまな意見があると考えられる。その中でもわたしは、中学三年生がよいと考える、むしろ受験の課題としたい。もし私が中学生ならば、授業の一環だとしても、まじめに取り組むことはないだろう。しかし、受験なら話は別だ。もし、受験の試験課題でそうやれと命じられたら、必死に取り組むはずだ。どんなことでもそうだが、本人のやる気がなければ大成しない。ましてや、教育の面ではなおさらなのだ。

私の意見は受験課題として先生の真似事をするというということだ。忘れてはならないのは、教育は生徒の向上心を如何に引き出すかにかかっていることだ。

 

                          H18年 6月12日

                          改訂   7月24日

 

 

 

 

ニーチェについて

古沢 健泰

 

 わたしは、ニーチェの考えには全面的に賛成である。特に、ふたつの考え方について肯定している。

 一つ目は、善悪の価値判断についてである。ニーチェがいうには、<よい>という価値判断は、<よい人>たち、すなわち高貴な人たち、強力な権力を持つ人たち、高位な人たち自身にゆだねられていて、こうしたひとびとが、低級層にいるひとびとの行動と逆で自分自身の行動もしくは自分自身を<よい>と評価するというものであった。ここから読みとれることとは、価値判断というのは、あらゆる人間が共通の基準をもって行っているわけではないということである。

 確かにそのとおりである。十人十色というように、人それぞれさまざまな考えを持っている。それでもそれなりに社会が回っているのは、<道徳>があるからである。道徳は、子供のころから教えられ、私の中にしみこんでいる。だから、<道徳>に反する行為には少なからず抵抗をかんじるのだ。しかし、わたしがここで、主張したいのは、<道徳>に反する行為が必ずしも<悪>であるかということである。たとえば、近親相姦を考えてみよう。

これは、現在で法律(道徳が基準になっている)では、禁止されている。なぜならば、同じような血筋をもつものからうまれた子供からは奇形児が生まれやすくなるからだ。しかし、もし、たまたま好きになった人物が、自分の親族であったとしたら結婚することはできない。それは、誰もが当然として持つ恋愛の自由すら奪っている。

このような矛盾が道徳にはあふれている。だから、わたしたちは道徳を絶対的なものとしてみなすのではなく、他人がその行動を嫌悪するか否かの判断基準にしていく必要がある。

 二つ目の考え方は、苦悩とは本来除去される必要があるが、人間の成長というのは苦悩によって進んでいくという考えである。これは、世の心理ともいえるほどのすばらしさを持っている。そして、もしこの考えを世の中に適用すると、わたしは戦争という面で顕著にあらわれていると考えている。

 戦争はいつに時代にも存在し、いつの時代にも武器が存在していた。はじめは原始的である石斧や槍といった接近戦用の武器しかなかったが、そのうち投石器などの遠距離戦用の武器も増えていった。これは、いかに戦況を有利に進めていこうという理念に基づいている。中世からは、鎧といった防具もうまれ、日本にも銃が伝達された。現代では、本来ならば人間の手に余る存在である原爆でさえ生み出してしまった。これは確かに<成長>と呼ぶこともできるが、一方では<退化>と呼ぶこともできる。国家間の狭い規模でみれば<成長>と呼べるが、地球という大きな規模でみると、武器開発による環境汚染、開発した武器によって土壌が傷つけられる、その結果として地球の寿命が縮むという悲劇を招いている。

 それならば、本当の成長とは何か。それは停滞である。前に進むことが時に<退化>

となるならその場にとどまればいいのだ。ただし、医療関係と農業関係だけは、進歩し続けていくべきだと考える。食料の確保と生命の安全が最優先だからだ。結局のところ、何もせずにいることが人間としてもっとも崇高な行動であるのだ。

 ただ、わたしたちはとどまることを知らない。歩みを止めたら、勢力均衡という考えで、世の中のバランスは崩れてしまう。わたしたちの世界はもう手遅れなところまで<退化>してしまった。

 

                            H18年 725